何貫keiba

貫とは本来は大量の銭を携帯するために銭を束ねた道具「銭貫」のことで銭の中央に空いている穴に貫や紐を通して1000枚を1組としておいた。現在の通貨で換算すると1貫はドリーム馬券し相当に価値は匹敵します。しかしながら的中は出来ないものですが、1000的中すれば価値は同等になります。

コラム

競馬場に来られたことはございますか?知り合いなどが来ていたら声をかけたりしますね!しかし、周りの人間にしてみれば、考え方や性格、言動など全く分からないのでこの知り合い同士は「浮いている」状態になっています。仲間同士で来て自分たちが浮いていることに気が付かず競馬以外の事で熱中し顧みなく振舞っている集団もいて、中には不的中で浮かぬ顔をしている者もいます。競馬場と言う集団の中では個々に必ず目標を持っており、効率を求めれば考えや言動が見合ってなければ困ります。人望があっても、浮かずに活動することは状況に応じては容易ではない事が把握できますね。ところが、どの集団も活動をすると考えや行動を統制するための心理的な「とりきめ」が生じます。集団の規範は一定の価値や考え、言動の基準を作り出してしまいます。それぞれの考えや、目標の違いからなのです。強い拘束力があり他の集団にも劣らない誇りある結束力も一度(ひとたび)他者に対しては「浮いて」しまうのだが、集団には取決めがあって自分への意見には固執し他者へは働きかけは一段と増加していきます。しかし、ある時点から働きかけが下がっていき、それぞれの集団の範囲からは他者は「浮いている」状態なります。逆に集団の「とりきめ」が法的、民生(判例に則った行動)や常識以外であれば集団活動は浮き始めて、世相からは見はなされた状態なっていくのです。一例を挙げるとカルト宗教ですね。しかし宗教も法的に求められていますので誠実な行いをしなくてはなりません。

 

・参考資料

 

 

破壊的カルトの特徴

思考、感情、行動、情報のコントロール(マインドコントロール)する。
一般社会や信者以外の人間の敵視、蔑視、軽視などする。
規模はいろいろで首謀者もいろいろである。そのため、

身近な存在なのでライフスタイルに合わせている。
組織への絶対服従と教義が変わったときには、自分の考えもそれに合わせる。

批判的思考の否定をし、目的のための手段を正当化しようとしている。
世界観の社会事象が単純なものから複雑なものへと分かれ、組織などが分岐発展している。組織は善、それ以外は悪とコントロールされ、救いや、心の平和は、組織に従うことによってのみ得られるとしている。そして、脱会すると、前よりももっとひどい目に合うと教えます。
組織を個人より優先させ、全体主義的体制と行動させ、これまでの人間関係や人生の目標など、過去との断絶を図る。

 

信者であるあなたは、全く気づかないがそれがカルト教です。

あなたのカルト度チェックリスト

仲間や活動はは良心的か

首謀者や組織に分別なく、ひたすら言うままになるようにしていないか

組織の外の世界を極端に悪く言わないか

組織はあなたの個性を尊重するか

異常に厳しい生活上の決まりはないか

外部の情報を自由に得られるか

それらの情報への考えは誠実か

伝統的宗教を極端に軽蔑していないか

一般の学校(平均的学力)への進学に積極的か消極的か

仲間の自主性やプライバシーを尊重しているか

あなたは仲間の過去の出来事や人間関係をバカにしていないか

 良い組織

仲間へシステム(活動内容)は開放的で、他の思想にも耳を傾ける

組織への批判能力はそのままか、強められてる

あなたの自主性はそのままか、強められてる

価値観や生活、目標などが仲間と一体化し、調和している

悪い組織

組織の操作や圧力によって今まで信じていた宗教や傾向を同じくする組織を捨てて入ることした

完全主義で他の考えを認めない

組織への批判的な考えは否定され、批判能力が脅かされる

自主性が失われる

これまでの人間関係や大切な過去を否定される。

経済的、精神的に組織は2階級社会で、生産手段の所有者が生産手段を持たない直接生産者を必要労働時間以上に働かせ、そこから発生する剰余労働の生産物を無償で取得される

集団活動について

集団活動とは、全体としての活動と個々に分離して活動するパターンがある。集団活動は全体としての活動と思うだろうが、これは日本人の特性とも言えるだろう!アメリカ人は個々に考えを分離りして活動している集団なので個人の才能が求められる。個人として無理なことは大勢と比較しても人数が多いの方が優位だが、決して有利とも限らない。集団活動は時間が経つにつれ効率性が低下しだします。5人もしくは10人体制で行動しているうち3人で活動をしてしまうことがある。範囲が縮小してしまうのは行動がワンパターン化しだしたり、集団の相互活動が興味や関心のある情報でしかないため伝達が外部と途切れだす。従って、考えが均一化し貧困な思想に陥ってしまうのだ。こうして内部で亀裂が生じ、相互作用が抑圧されマンネリ化し、特定人物が仕切りだす。有能な人物が集まっても3年をピークにして集団活動は低下し、顕著さは5年が限度でコミュニケーションは減少しだすのです。一人で課題に取り組むのと数人と協議するのでは意欲の差は競争と言う形では高まるが、相互の抑圧は手抜きを発生させる結果となる。勉学では「点数」が結果となり意欲の残像が残りますが、集団活動では全体結果と考えてしまい個人意欲の低下が増えてしまいます。つまり、一人の考えは少なくても他の人達がいると思う安堵感から社会的な手抜きを発生させてしまうのです。この減少は個々に責任の拡散があったときに発生し、明確な責任を自ら自覚させなければならない。しかし、特定人物の責任が求められないと個人にも及んでいきます。集団活動の「とりきめ」が無責任ならではの現象でもある。こうしてみると集団活動は個々に分離しておいた方が有意義であろう。しかし、集団では共通の目標があり全員の一体感が必要になるので「集団」を理解できる能力が求められる。目標があって活動するのだから非現実な活躍は意欲を妨げ、現実的な知恵や経験と能力が必要となるでしょう。その為、人望が求められ他の人物にない個性がリーダシップを発揮します。個性とは、正当性を認め集団の非を受け入れる考えでリーダーには自由と権利の思想があります。不本意な考えは自己の自由な意思を放棄し指示を煽るだけです。こうして人望は時代に引き継がれ徐々に積み上げていくものです。人間一人の考えでは個人の価値観で物事を考えて望ましくなく、同時に集団の同調だけで指示を随行しても硬直化する。マンネリ化した部分は無視し、社会への創造豊かな新鮮さを組織にもたらす直感で表現することが重要なのです。他者に対し接する事は対話だけでなく人々との「ふれあい」なのでしょう。真実は上位者に認められるが、なにかにつけ上司の承認を得なければ活動せず、上機嫌でなければ真実を伝えない。下位者は逆に真実を伝えることをためらってしまったり、自分の評価を偽る形を取る沈黙効果が出来上がって効率が鈍ってしまう。最近は残業など時間の短縮が求められていますが、効率性とは人の移り変わりだと私は考えています。規範意識の違いから遵法精神が疎かになっているかもしれませんが、会社が法令順守ということではなく裁判官が定める国際的な民主主義のシステムが守られていないのではありませんか?規範意識労働法に従えば問題はありません。規模の拡大は大勢多数の活動ではなく、個々に分離し考え活動する能力の向上でしょうね。日本の社会的な集団活動はこのように循環していたのですが最近では人事異動も拒んでしまっています。国際社会ですので海外の人物や、国外で活躍する日本人に期待が高まるばかりです。

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